Aemilius Mamercus/Mamercinus 家 |
Aemilius Mamercus/cinus 家の系図 |
アエミリウス・マーメルクス/マーメルキーヌス家 マーメルクス家あるいはマーメルキーヌス家は、旧貴族のアエミリウス氏族の中でも最も古い家系であり、共和政ローマ史の初期において名高い家系であった。 この家系は、マーメルクスという名はヌマ王(すべてのアエミリウス氏族の起源がそこから辿られるとされていた)の時代に由来していると公言していた。というのは、ヌマ王の四人の息子のうちの一人であるマーメルクスは、よどみなく話す人物だったのでアエミリウス(「口のうまい人、雄弁家」の意味)という渾名がついたと伝えられており、これがアエミリウス一族の名前の由来であるとされていたからである。 しかし、『Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology』は次の様な考えを表明している。「アエミリウス氏族がサビニ族起源であることはかなり明らかなように思われる。フェストゥス(後2世紀の古事研究家のSex.Pompeius Festusか、あるいは後370年頃の歴史家のFestusのことか)は、マーメルクスという名をオスク語由来と見たが、マーメルスはその言語でマールス(軍神Mars)と同じである。サビニ族はオスク語を話していた。その後、アエミリウス氏族はヌマ王の時にローマに来たのであろう。」 マーメルクスという名が、古いイタリアの言葉の軍神マールスに由来するという事は他の資料(例えば『New Pauly』)も支持している。マーメルクスという名は、アエミリウス氏族の中で個人名(ごく初期のみ)および家名(さらに変化してマーメルキーヌスとなった。また、マーメルキーヌスという名はピーナーリウス氏族も家名として使用した)として、前5世紀と前4世紀に使用されていた。 しかしこのマーメルクス/マーメルキーヌス家は、他の多くの初期ローマ家系と同じように、サムニウム戦争の頃に姿を消した。マーメルクスという個人名は、使われなくなって長い年月が経った後、前1世紀頃にアエミリウス・レピドゥス家の一部の家系やアエミリウス・スカウルス家で、再び使用された。 Lucius Aemilius Mamercus ルーキウス・アエミリウス・マーメルクス 貴族 祖父:- 父:Mamercus 息子:Tiberius Aemilius Mamercus(470執政官等) 484,478,473 執政官 アエミリウス氏族で最初に執政官職を得た人物。 前484年にカエソー・ファビウス・ウィーブラーヌスと共に一度目の執政官となり、リーウィウスによると、ウォルスキとアエクィを征服したというが、ディオニュシオスの記述では、彼らに撃破されたとなっており、マーメルクスはそのため民会を開くためにローマに入るのを恥じたという (リーウィウス、2.42 ; ディオニュシオス、8.83-87 ; ディオドロス、11.38)。 彼は、前478年にガーイウス・セルウィーリウス・ストルークトゥス・アハーラと共に2度目の執政官となり、ウェイイ軍をその城壁の前で大損害を与え撃ち破った。彼はその後ウェイイと、元老院が好意的すぎると見なすような条件の条約を締結し、その結果凱旋式を拒否された(リーウィウス、2.49 ; ディオニュシオス、9.16,17 ; ディオドロス、11.52)。 彼は前473年にウォピースクス・ユーリウス・ユルルスと共に3度目の執政官となった。この年はローマにおいて、平民たちの大きな動乱があった。対外的平和から内訌が起き、護民官たちが農地法を主張し、平民たちが荒れ狂ったのに対し、両執政官は全力を挙げて抑えつけようとした。護民官の一人のゲヌーキウスが殺されているのが見つかったことから護民官たちはおびえ、貴族たちはこの勝利に意気揚々とし、通常よりも厳しく兵士の召集を強行した。この時、平民出身のウォレロー・プーブリリウスが、自分は百人隊長を勤めたのだから今さら一兵士として召集されるいわれはない、と抵抗したため、彼のもとへ両執政官からリークトルが差し向けられた。両執政官はウォレローの衣服を剥がし、鞭で打つように命じたが、ウォレローは自分の力と、彼をかばって激昂する平民たちの力とでリークトルを押し返し、平民たちが密集する中に飛び込んで助力を求めた。人々はいきり立ち、両執政官は自ら身を挺したものの、リークトルたちには暴行され、ファスケースはへし折られ、フォルムから元老院に追い立てられてしまった。騒擾が下火になった後、元老院議員たちは、今回の件で平民たちへの厳しい断罪は避けることとした(リーウィウス、2.54,55 ; ディオニュシオス、9.37-41 ; ディオドロス、11.65 ; フロールス、1.22)。 ディオニュシオスによる(9.51)と、彼は凱旋式を元老院に拒否されたという敵意から、前470年の農地法を支持したという。 Tiberius Aemilius Mamercus ティベリウス・アエミリウス・マーメルクス 貴族 祖父:Mamercus 父:Lucius Aemilius Mamercus(484執政官等) 470,467 執政官 執政官となった最初の年である前470年は、平民への土地配分を提唱する農地法をめぐり、貴族と平民の争いによって激しく動揺していた。ティベリウスはその父ルーキウス(彼は凱旋式を拒否されたことから元老院に敵意を持っていた)と共に、農地法を支持した。 ティベリウスはまた、この年サビニ族の領域へも軍を率いた。サビニ族が防壁の内側に立て籠もったためティベリウスは領域を荒らし、人口豊かな村々まで火をかけたためサビニ族は決起し、戦いを挑んだ。しかしサビニ族は形勢互角なまま合戦を切り上げ、翌日いっそう安全な地点に陣営を後退させた。ティベリウスはそれを、勝利を得た如く敵から離脱する充分な理由と考え、そこから引き揚げた(リーウィウス、2.61-62 ; ディオニュシオス、9.51,55 ; ディオドロス、11.69)。 前467年にティベリウスが執政官になると、農地法の支持者である彼の二度目の執政官就任であったため、土地配分を望む人たちは法を期待して気勢をあげた。護民官たちはこれまでしばしば農地法獲得のため執政官たちを敵にまわしてきたが、執政官が味方になるならば事は成就し得ると考えて本腰を入れ、当のティベリウス自身も考えを固持していた。しかし一方でそれら配分の対象となり得る土地の所有者たち(元老院議員たちの大部分)は、指導的人物が護民官などの提案にかかずらい、他人のものを気前よく分配して人気とりをするとは何事かと非難し、護民官たちよりも執政官であるティベリウスの方を憎悪した。 すんでのところで激しい抗争に至ろうとする時、もう一人の執政官であったクィーントゥス・ファビウス・ウィーブラーヌス(467,465,459執政官等)が、いずれの側も傷つけない意見を示し、事態を収拾した。すなわち前年ウォルスキ族から得たアンティウムの近くの土地に植民市を建設すれば、土地所有者には不満をいだかせずに平民を土地に定着させることができ、市民団の協調が得られると提案したのである。この見解が受け入れられ、土地配分が実行に移された(ただし、平民の大部分は結局、よその土地よりもローマで土地を得たいとして、この植民市建設に加わらなかった)。 ティベリウスはこの年も再度、サビニ族に対する戦争を続けた(リーウィウス、3.1 ; ディオニュシオス、9.59 ; ディオドロス、11.74)。 Mamercus Aemilius Mamercinus マーメルクス・アエミリウス・マーメルキーヌス 貴族 祖父:- 父:Marcus 息子:Manius Aemilius Mamercinus(410執政官等) Lucius Aemilius Mamercinus(391執政官権限軍事護民官等) 446 財務官 438 執政官権限軍事護民官 437,434 独裁官 428 フィデナエ調査のための三人委員(III vir Fiden.cognosc.) 426 独裁官III 前446年財務官に選ばれる。これは、今まで財務官が執政官によって選ばれていたのに対し、民衆によって初めて選ばれたものであった(タキトゥス、『年代記』11.22)。 前438年に執政官権限軍事護民官。前437年、フィデナエが前年からウェイイ王ラル・トルムニウスの側に寝返っており、ウェイイ人とフィデナエ人に対する戦争を遂行するために独裁官に任命された。彼はルーキウス・クィンクティウス・キンキンナートゥスを騎兵隊長に任命し、敵軍に対して輝かしい勝利を収め、その結果凱旋式を得た(リーウィウス、4.17-20)。 前434年、二度目の独裁官に指名され、アウルス・ポストゥミウス・トゥベルトゥスを騎兵隊長としたとされている(ただしこれらを疑う説もある)。彼はファレリィとエトルリアの脅威に対して任命されたのであったが、その脅威が消滅したため、ローマを離れる機会を失った。またこの年、彼は、以前は5年であった監察官の任期を18ヶ月に制限する法案を可決した。この法案は民衆から大きな賛同を受けた。しかしその時在職中であった監察官たちはそれにひどく怒って、彼をその所属トリブスから取り除き、彼をローマ市民の中の最下層の等級(aerarian:人頭税は払うが選挙権を持たない。あるいは『ブリタニカ百科事典』によれば、「古代ローマ市民のうち、ケンソルの譴責を受けた階級。他の市民より重い税負担などの罰が課せられた。不道徳な行為などがその因となった。」)に落とした (リーウィウス、4.23-24)。 前428年、前年にウェイイ軍の急襲があり、それにフィデナエが関与していないかどうかを調査するための三人委員の一人に任命された。 彼は前426年に三度目の独裁官に指名され、アウルス・コルネーリウス・コッススを騎兵隊長に任命した。ウェイイとフィデナエを打ち負かし、フィデナエを再占領して、凱旋式を挙行した(リーウィウス、4.31-34 ;ディオドロス、12.80.6-8 ;ウァレリウス・マークシムス、3.2.4)。 Manius Aemilius Mamercinus マーニウス・アエミリウス・マーメルキーヌス 貴族 祖父:Marcus 父:Mamercus Aemilius Mamercinus(438執政官権限軍事護民官等) 兄弟:Lucius Aemilius Mamercinus(391執政官権限軍事護民官等) 410 執政官 405,403,401 執政官権限軍事護民官 前410年にガーイウス・ウァレリウス・ポティートゥス・ウォルーススと共に執政官。彼は前405年、前403年、前401年の三度、執政官権限軍事護民官になっているが、彼に関する記述があるのは前401年に執政官権限軍事護民官たちが皆それぞれの方面に指揮権を与えられた時、彼がウェイイに対しての指揮権を得た(リーウィウス、5.12.4)という事だけである。 Gaius Aemilius Mamercinus ガーイウス・アエミリウス・マーメルキーヌス 貴族 祖父:Tiberius 父:Tiberius 394,391 執政官権限軍事護民官 前394年に執政官権限軍事護民官となり、同僚のスプリウス・ポストゥミウス・アルビーヌス・レーギルレーンシスと共にアエクィに対する戦争を続けた(リーウィウス、5.28.6-13)。 彼は再び前391年に執政官権限軍事護民官となり、同僚のルーキウス・ルクレーティウス・フラーウス・トリキピティーヌスと共にウォルシニィの民を征服し、20年間の休戦を受け入れることを強いた(リーウィウス、5.32.2-5) Lucius Aemilius Mamercinus ルーキウス・アエミリウス・マーメルキーヌス 貴族 祖父:Marcus 父:Mamercus Aemilius Mamercinus(438執政官権限軍事護民官等) 兄弟:Manius Aemilius Mamercinus(410執政官等) 息子:Lucius Aemilius Mamercinus(366執政官等) 391,389,387,383,382,380 執政官権限軍事護民官 前391年、前389年、前387年、前383年、前382年、前380年の執政官権限軍事護民官。前389年にエトルリアに対する軍隊指揮権を持ったことが記述されている(リーウィウス、6.2.8)。 『Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology』は、前377年の執政官権限軍事護民官もこの人物だとするが、『The Magistrates of the Roman Republic』はその息子と区分している。ただし、その注には「アエミリウスの親子関係は全く不確かである。」とある。 Lucius Aemilius Mamercinus ルーキウス・アエミリウス・マーメルキーヌス 貴族 祖父:Mamercus Aemilius Mamercinus(438執政官権限軍事護民官等) 父:Lucius Aemilius Mamercinus(391執政官権限軍事護民官等) 息子:Lucius Aemilius Mamercinus Privernas(341執政官等) 377 執政官権限軍事護民官 368 騎兵隊長 366,363 執政官 355 中間王 352 騎兵隊長 この人物に関しては、いくつかの異なった説がある。 『The Magistrates of the Roman Republic』と『New Pauly』は、前377年から前352年までの経歴をまとめて一人の人物と記述しているものの、それらがすべて同一人物かどうか確かではない、とする。 特に『The Magistrates of the Roman Republic』には注釈が前377年(前項参照)と前352年に付けられている。後者に関しては例えばモムゼンがこの前352年の騎兵隊長を、前341年の執政官であるマーメルキーヌス・プリーウェルナースと同一人物と見なすことを提案した(この場合、プリーウェルナースは前316年まで経歴を持つため、この任命の時には非常に若年だったことになる)が、デグラッシはこの同一視に反対した……等とある。 1849年に発行された『Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology』では、前377年はこの項目の人物の父親の経歴とされ、前368年、前366年、前363年の経歴がこの項の人物の経歴、そして前353年、前352年の経歴はこの項の人物の息子の経歴となっている。そしてさらにその息子が前341年の執政官であるマーメルキーヌス・プリーウェルナースとされており、つまり『The Magistrates of the Roman Republic』などがこれらの経歴を基本的に一人の人物に対して割り振っているのに対して、『Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology』では、基本的にこの経歴を二人の親子のものだと見なしていることになるのである。 ともかく、その経歴について述べれば以下の様になる。 前377年の執政官権限軍事護民官の時、アエミリウスとウァレリウスはサトリクムでウォルスキに対しての軍隊指揮権を持ち、その間スルピキウスとルーキウス・クィーンクティウスはラテン人からトゥスクルムを取り戻した(リーウィウス、6.32-33)。 前368年、護民官のリキニウスとセクスティウスが執政官のうちの一人は平民でなければならないとしてローマで大きな騒擾を起こし、執政官選挙を多数の民衆が妨害した。このため元老院は対ガリア人戦争の英雄であるカミルルスを独裁官に指名し、アエミリウスはその騎兵隊長に任命された。しかし騒擾は収まらず、カミルルスは何らかの理由(民衆の脅迫か、あるいは儀式上の過失か)で職を辞し、再度別の独裁官と騎兵隊長が指名、任命されたという(ただしこの時期の伝承には捏造が多いともされている)。 前366年、アエミリウスはルーキウス・セクスティウス・セクスティヌス・ラテラーヌスと共に執政官となったが、セクスティウスは直前に通過したリキニウス・セクスティウス法によってこの官職に選ばれた最初の平民であった。彼は363年に再び、グナエウス・ゲヌーキウス・アウェンティーネンシス(平民)と共に執政官となった(リーウィウス、7.1,3)。 前355年、執政官選挙の遅延のためか、執政官の不在状態となったため、幾人かの中間王が任命され、アエミリウスはそのうちの一人となった(リーウィウス、7.17.10-12,18.1)。 前352年、エトルスキに対する間違った戦争の兆しが届いて、野営地においてガーイウス・ユーリウス・ユルルスが独裁官に指名され、アエミリウスが騎兵隊長に任命された(リーウィウス、7.21.9)。 Lucius Aemilius Mamercinus Privernas ルーキウス・アエミリウス・マーメルキーヌス・プリーウェルナース 貴族 祖父:Lucius Aemilius Mamercinus(391執政官権限軍事護民官等) 父:Lucius Aemilius Mamercinus(366執政官等) 352,342 騎兵隊長? 341 執政官 335 独裁官 329 執政官II 326 中間王 316 独裁官II 彼は、「サムニウム戦争におけるすぐれた将軍である(『Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology』)」と書かれ、サムニウム人との戦いの記述が多く出てくる一方で、「アエミリウス・セルウィリウス派は、対外的には親サムニウム派で……前341年に突如サムニウム人との同盟を復活したのは、時の執政官アエミリウスであった(『ローマ共和政』P61)」とも書かれている。同書では続けて「しかし一介の政治家にとって、自己の直接の前任者たちに押しつけられ、そのうえローマの永続性を保証する元老院に支持された従来の方針とすっかり手を切ることは、困難であった。それゆえ諸事件の細部には、幾多の矛盾と曖昧さとがめじろおしに詰まっている。」ともされている(この前343年頃〜前295年頃の第一次史料の多くの矛盾について、モムゼンの『ローマの歴史 I』P329の原注*以下の部分に詳しい)。 以下、基本的に『ローマ共和政』以外の資料に従って述べる。 前352年(リーウィウス、7.21.9)、前342年(リーウィウス、7.39.17)の騎兵隊長職に関しては、「ルーキウス・アエミリウス」とされているだけで、この人物であるという確証はない。特にデグラッシは、前352年の騎兵隊長職を彼の父親に帰している。 前341年の執政官職からが、彼の確実な経歴となる。この年彼はサムニウム人と戦い、これを荒廃させたが、サムニウム人に対して平和に関する外交使節を送ったという(リーウィウス、8.1)。またこの年に関しては、ラテン戦争のためという情勢を鑑みて同僚のガーイウス・プラウティウス・ウェンノと共に計画的に撤退したという記述もある。 前355年に彼は、ローマに執政官たちが不在であったために、民会を開く目的で独裁官に指名された(リーウィウス、8.16.12)。 前329年、彼はガーイウス・プラウティウス・デキアーヌスと共に二度目の執政官となった。この時には、ガリア人が南に向かって進んでいるという報告のために、ローマに大きな不安が存在していた。それゆえデキアーヌスが、長く抵抗が続いていたプリウェルヌム(ラティウムのウォルスキ人の町)に対して進み、マーメルキーヌスはガリア人に対抗するために大軍を召集し始めた。しかし、ガリア人の来襲が根拠のないものだったと分かると、両方の執政官はその軍を合流し、プリウェルヌムに対して向かわせた。プリウェルヌムは陥落し、その結果マーメルキーヌスは同僚と同様に凱旋式を得て、その町に好意的な和平条件と市民権を与えた(リーウィウス、8.20-21 ; ウァレリウス・マークシムス、6.2.1)。この町の占領は非常に栄誉ある偉業だとみなされたに違いなく、以来マーメルキーヌスはプリーウェルナースという名を得たのだろうと考えられている。ただし、『New Pauly』はこの話を「恐らく後年の作り事」としている。 前326年に中間王のうちの一人(14番目)になったと伝えられている(リーウィウス、8.23.17)。 前316年、再度独裁官に指名され、サティクラ(サムニウムの町)を攻撃し、サムニウム軍を破った(リーウィウス、9.21)。 Titus (or Tiberius) Aemilius Mamercinus (Mamercus) ティトゥス(ティベリウス)・アエミリウス・マーメルキーヌス(マーメルクス) 貴族 祖父:- / Tiberius 父:- / Tiberius 352 負債精算のための五人委員(V vir mensar.) 341 法務官 339 執政官 祖父・父名のティベリウスは、『Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology』のみが記述。 前352年、深刻な負債問題を処理する為に、負債精算のための五人委員の一人に任命された。委員たちはこれを、公的資金の支払いか、破産手続きの権限を与えることか、財産放棄かによっておこなった(リーウィウス、7.21.5-8)。 前341年の法務官の時、サムニウム側の使節を元老院に案内した事が伝わる(リーウィウス、8.2.1)。 前339年、平民出身のクィーントゥス・プーブリリウス・フィローと共に執政官。プーブリリウスがラティウム族と戦っている間、アエミリウスは軍を率いてペドゥムに向かった。ペドゥムはティブル、プラエネステ、ウェリトラエの連合軍によって防御されており、さらにラヌウィウムとアンティウムからの助けも受けていた。各所における戦いはローマ軍に有利であったが、アエミリウスは戦争を終結させる前に突然ローマに帰還した。その理由は彼が、同僚に凱旋式が命ぜられたと聞いたためだったというが、実際にはアエミリウス自身が勝利を得る前に凱旋式を要求するためであった。元老院はこの自分勝手なおこないに愛想をつかし、アエミリウスに、ペドゥムを占領するか降伏させないうちは凱旋式を行わせないと通告した。このことがアエミリウスと元老院の間に完全な離反をもたらし、これ以後アエミリウスはその執政官職を扇動的な護民官の精神と短気でもって執行した。彼が執政官である間中、彼は絶え間なく民衆に対して元老院の悪口を言っていた。そのことに関して同僚のプーブリリウスからは何の妨害も受けなかったが、それはその同僚自身が民衆派に属していたからだった。アエミリウスは、元老院がラティウムとファレルヌス(カンパニアの一地方)のほんの少しの土地しか平民に分配しなかったことを元老院への非難の材料としたが、元老院の方では執政官の権限に歯止めをかけようと、ラティウムの反乱に対して独裁官を指名する命令を出した。ところがアエミリウスがその時点で、交代で持つ最高指揮権を持っており、アエミリウスは同僚のプーブリリウスを独裁官に指名した(リーウィウス、8.12.7-13)。 この独裁官プーブリリウスはこの年に「平民会決議が全市民を拘束する」「監察官のうち一人は平民でなければならない」などの平民寄りの立法を行ったとされ、アエミリウスのこの独裁官指名は、元老院の権力を奪うためだったとリーウィウスは考えている。しかし現在では、「平民会決議が全市民を拘束する」という法律は前287/6年のホルテンシウス法の内容と重なることから虚構であると考えられており、またプーブリリウスの前339年の独裁官就任自体も疑わしい(恐らく執政官職のみであったのだろう)と考えられている。 |
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